横浜 デッサン教室 / 二十世紀絵画について
多くの人が理解しようと努力する「現代絵画」の理解ですが、「現代絵画」は「絵画」とは別のものです。二十世紀の絵画は「反絵画」です。絵画が成立していた色や形を用いないで表現したいことを伝えようとしたからです。
「表現したいこと」の表現とは対象の表現ではありません。自己の内面から湧き上がる感情や意識を表出するのを「表現」としました。悲しみとか疎外感とかそうした個人的な感情を表出するのも「表現」ですが、美意識を表現したデザインも「表現」です。例えば、正方形が完璧だ、正円が美しいと感じるのも自己の内面に潜む美意識です。誰もがそう感じると言うのは詭弁です。なぜならば、人々の生活の周辺にはそれ以外の形が満ちているからです。絶対的な美を感じる人がいても良いでしょう。美は多様です。「反絵画」は対象の表現よりも自己の表現を優先する絵画のことをいいます。
20世紀初頭にピカソやマティスがやったことは絵画を対象を描くことから開放して、自由に、そして秩序だった画面を作ることを新らしい絵画としたことです。すなわち、対象に従属していた線を一定のデザイン秩序への従属へと変更し、対象や光に従属的であった色彩も色彩心理や構成理念を優先してデザイン的に統一された絵画を作ることでした。
デザインとしての線は絵画としての線とは異なります。「マティスの線は上手い」、「ピカソはデッサンが上手い」と言われるのは絵画としてではありません。「反絵画」として上手いのであり、美しいのです。
その場合の「美しい」とは「開放された」「自由になった」という感情です。絵がドガやロートレックの様に一本の線で対象の印象を的確に捉えるのが美しいとすると大変な天分と努力が必要になります。それこそ天才にしか引けない線なのです。凡人には容易に引けないのです。凡人は必死に何年間も的確に対象を捉えるために訓練を積まなければなりません。ピカソやマティスはそうした絵画から開放したのです。その意味で「マティスの線は上手い」、「ピカソはデッサンが上手い」と言えるのです。
先鞭をつけたのはセザンヌやアンリ・ルソーでした。対象を十分に反映していない絵画にモチーフの属性を巧みに描写する対象性絵画とは別の魅力が現れていることをマティスやピカソらは気づき、新しい絵画を模索していた彼らは絵画的には下手の部類に入る絵画の可能性に気づきました。対象を離れても、作者が描きたい絵画が明確で、自らの表現を駆使して統一的な作品世界を作っています。自らの「造形性」を素材として絵画作品を創り出すことのほうが対象に依存して造形される絵画より新鮮な絵画を生み出せ、秩序ある作品を生み出せるとしました。今で言う「デザイン」の誕生です。
20世紀初頭には反絵画と同時に大胆で奇抜なデザインが次々とあらわれ、絵画制作をも牽引してゆきます。20世紀の「反絵画」の登場は絵画表現の範囲を一気にグラフィックデザイン全般に広げました。「絵画」の冒険がグラフィックデザインの冒険へと一気に拡大したのです。図像と文字の組み合わせ、印刷物や写真や平らな壁紙や木材や布帛素材のコラージュ、更に画面に張り込めるものであればガラクタの断片や国旗や日記帳などの実物を構成するとか、実際に作った構造物を写真にしシルクスクリーンで画面に印刷するなど、ありとあらゆるグラフィック処理が表現の場となりました。「絵画」を離れたこのような画面処理が「現代絵画」と呼ばれるものです。
平面における、もしくは、平面的にディスプレイされた創作物、すなわちグラフィックデザインやディスプレイデザインなどの美術全般の中では絵画はあまりに特殊です。特殊だから旗や標識や幾何学装飾など一般の平面創作物と区別して「絵画」と言う限定されたジャンルを成立させていました。絵画は具体的な対象を表現するため具体的対象から作者の主観によって引き出された具体的な線や色彩を用いた創作物です。それに反し「現代絵画」は絵画の表現の領域をグラフィックデザインに広げ、新たなジャンルを形成しました。
「現代絵画」は従来の絵画的な面白さを乗り越えたのでもなく、完成させたのでもありません。二十世紀絵画の展開は「絵画」とは違うと言わなければならないのは「上手い」「下手」と言った用語が絵画の用語ではなく、デザインとしての用語である点を注意したいからです。
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